境を守る神

― 備後・世羅の賽の神と出雲信仰の南限 ―

まほろば 記


一 畑の隣の祠

私の畑の隣に、小さな祠がある。

石を積み、風雨に削られた素朴な祠だ。地元の誰もがそこに祠があることを知っているが、誰がいつ建てたか、正確に答えられる者はいない。それは「昔からそこにある」というだけで、長い年月のあいだ、人々の暮らしに溶け込んできた。

賽の神(さいのかみ)という。村境や辻、峠などに祀られ、外から侵入する疫病や悪霊を遮り、土地と人を守る神だ。「賽」の字には「さえぎる」という意味がある。道を行く旅人を護り、縁を結び、子どもたちを見守る神でもある。

自然農を続けながら、私はその祠のそばで土を耕してきた。季節が変わるたびに祠の前を通り、手を合わせてきた。そして、やがてひとつの問いが私の中に芽生えた。

この神はどこから来て、なぜここに立ち続けているのか、と。

その問いを辿っていくと、はるか古代出雲の信仰まで繋がる一本の糸が見えてきた。

二 出雲という国

今から二千年以上前、日本列島の中国地方に、ひとつの強大な文明があった。出雲である。

出雲の神、大国主命(おおくにぬしのみこと)は、農耕・漁業・医療・縁結びなど、人間が生きるための知恵を授け、国土を整えた。その国を「豊葦原の瑞穂の国」という。人々が豊かに実り、共に栄える国だ。

古代出雲では銅剣・銅鐸・銅矛など、大量の青銅器が出土している。荒神谷遺跡からは三百五十八本もの銅剣が一度に発見された。これは出雲が単なる地方勢力ではなく、広大な文化圏を持ち、周辺の国々と深い交流をもっていた証拠である。

出雲の影響圏は、現在の島根・鳥取(因幡・伯耆)を中心に、北は日本海沿いに新潟・秋田にまで及んだ。方言の研究でも、出雲弁と東北のズーズー弁が言語的に近縁であることが明らかになっており、弥生・古墳時代に出雲から日本海沿いに人々が移動した痕跡と考えられている。

そして出雲の影響は、南にも、中国山地を越えて広がっていた。

三 国譲りと大国主の御業

やがて、高天原の天照大御神が、地上の統治権を大国主命に求めた。いわゆる「国譲り」の神話である。

大国主命はこの求めを受け入れ、地上の政治の世界から退いた。しかしその代わりに、壮大な宮殿を建ててもらうことを条件とした。そうして建てられたのが、現在の出雲大社の原型である「天日隅宮(あめのひすみのみや)」だ。

大国主命は「目に見える世界の政治は天津神の子孫が担う。私は目に見えない縁や魂の世界を司る」と定められた。つまり国譲りとは、敗北ではなく、役割の転換である。大国主命は今も出雲大社の奥深くにいて、人の縁、生死、霊魂の営みを静かに導いている。

旧暦十月、全国の神々は出雲に集まると言われる。この月を他の地では「神無月」と呼ぶが、出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ぶ。神々は出雲大社で大いなる縁結びの会議を行う。賽の神もまた、この月には出雲へ旅立つと昔話は伝える。

神が不在の村を守るため、人々は各地で火祭りを行った。その祭りの名が「賽の神まつり」である。

四 賽の神はなぜ出雲と繋がるのか

賽の神の性格をよく見ると、大国主命の御神徳と深く重なることがわかる。

大国主命は縁結びの神であり、病気平癒の神であり、農業の神である。賽の神もまた、縁を結び、疫病を防ぎ、五穀豊穣を願う神だ。大国主命が「幽冥(かくりよ)」つまり目に見えない世界を司るように、賽の神は境界という見えない結界を守る。

出雲大社の分院・分祠は全国に広がるが、備後に最初に設けられた分院は、隣接する三次市三良坂町にある「出雲大社備後分院」である(明治十五年創建、広島県内最初の出雲大社分院)。出雲信仰が備後にまで確かに根を張っていた証拠だ。

また、出雲神話の「国引き神話」では、大国主命の祖先にあたる八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)が、朝鮮半島や北陸から土地を「引き寄せて」出雲を大きくしたと語られる。それほどに出雲の神々は、広大な地と海を繋ぐ存在として描かれてきた。

賽の神は、その出雲文化圏の末端で、各集落の「境界」を守るために置かれた神の末裔ではないか。私はそう推察する。

五 備後・世羅という「境」の地

私が暮らす広島県世羅町は、標高三五〇〜四五〇メートルの「世羅台地」に位置する。

この台地には、特別な地理的事実がある。世羅には「分水嶺(ぶんすいれい)」が走っているのだ。降った雨は、ここを境に、北に流れれば江の川を伝って日本海へ、南に流れれば芦田川を伝って瀬戸内海へと向かう。

日本海側は出雲の文化圏。瀬戸内海側は大和・吉備の文化圏。世羅はまさに、古代の二つの文明が接する「境界の地」だった。

境界には、神が宿る。

古来、人々は村と村の境、人里と山野の境、この世とあの世の境に、神を祀ってきた。世羅の台地そのものが、日本海文明と瀬戸内文明の「境」である。ここに賽の神が祀られてきたことは、偶然ではないと私は思う。

出雲の人々が南方へ信仰を広めながら到達した南限が、この分水嶺の地、備後・世羅だったのではないか。そして彼らは、この地の境界を守るために、賽の神を祀ったのではないか。

私の畑の隣の祠は、そのような長い歴史の証人なのかもしれない。

六 祠を守るということ

賽の神の昔話にこういう話がある。

旧暦十月、賽の神は他の神々とともに出雲へ旅立つ。留守の間、疫病神が村にやってくる。疫病神は来年の災難を記した帳面を賽の神に預けていく。しかし賽の神はその帳面をこっそり白紙に替えてしまう。疫病神が戻ってきても、帳面には何も書かれていない。おかげでその村には災いが起こらなかった——。

この話は単なる昔話ではないと私は感じる。賽の神とは、声を持たず、誰にも気づかれず、ただ静かに土地と人を護り続ける存在なのだ。

祠を守るとはそういうことだと思う。派手な宗教行事でも、観光資源の保存でもない。誰も見ていなくても、手を合わせること。草を刈ること。土を整えること。神が今もそこにいるという感覚を、日々の暮らしの中で繋いでいくこと。

自然農とは、土を壊さず、土の力を引き出す農法だ。土の中には、目に見えない無数の生命が働いている。賽の神が守る「目に見えない世界」と、自然農が大切にする「土の中の見えない命」は、どこかで繋がっているように感じる。私はそのつながりの上に立って、土を耕し、祠に手を合わせている。

七 子どもたちへ

この祠が、いつ誰によって建てられたか、私にはわからない。しかし、その人たちが何を大切にしていたかは、わかる気がする。

土地には記憶がある。この世羅台地の、分水嶺のほとりに立つ祠は、古代出雲から続く「境界を守る」信仰の記憶を今も宿している。その記憶を絶やさないために、私はここにいる。

あなたたちがここを訪れるとき、あるいはここで育つとき、この小さな祠の前で少し立ち止まってほしい。

祠は何も言わない。しかし、ここに立っていることが、すでにひとつの言葉だ。「私はここにいる。ここを守っている」という言葉だ。

大国主命が幽冥の世界から縁を結び続けるように、賽の神が何百年も境界を守り続けるように、私たちも、この土地の記憶を次の世代へ手渡していく。それが「祠を守る」ということの、本当の意味だと思っている。

おわりに

この文章は、史実の確認できる部分と、私自身の推察とを混えて書いた。古代出雲の文明の実在、出雲弁と東北方言の言語的類似、賽の神と出雲信仰の関係、世羅台地の分水嶺という地理的事実——これらは根拠のある事実だ。しかし、「世羅が出雲信仰の南限である」という解釈は、私の推察である。

推察は、嘘ではない。証明されていないだけだ。そして、証明よりも大切なことがある。この土地を、この祠を、愛すること。

神話とは、証明できない事実のことだ。しかし、神話は人を動かす。

賽の神は今日も、私の畑の隣に立っている。

まほろば
広島県世羅郡世羅町